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ELEANOR RIGBY
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# by minocoach | 2010-09-20 23:30 | 日記

interFM

vibrate to this/slyde
freak into the music/smorgas
EXCLUSIVE DJ MIX/SHINICHI OSAWA
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# by minocoach | 2010-02-26 01:38 | 日記

good

007 カジノロワイヤル casino royale :1967

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これはすごい!!
このハチャメチャ感、無茶苦茶な展開、軽快な音楽(すごく良い!!)、一昔前の時代特有の破天荒なパワフルさ!!
DVD買おうっと!!




FAQ:Frequently Asked Questions
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# by minocoach | 2010-02-13 21:30 | 日記

好きな言葉

世界観
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# by minocoach | 2010-01-09 05:00 | 日記

諸人こぞりて

諸人こぞりて

阿川尚之
SFC担当常任理事

先週金曜日の夕方、あわただしく荷造りをして京都へ向かった。翌土曜日の朝から同志社大学法学部大学院でアメリカ憲法の集中講義を行うためである。十二月に入って日の入りが早い。新横浜で乗車したN700系「のぞみ」が関ヶ原を抜け京都へ定刻に到着したころ、都の空はすでに暗かった。地下鉄に乗り換え烏丸今出川で下車。地上に出て今出川通りを東へ少し歩き、冷泉家の前を通り抜けて同志社の正門と御所の今出川御門に面した角を左に曲がる。宿を借りる同志社アーモスト館は、もうすぐそこである。

部屋に荷物を置いて再び外へ出た。まだ食事を取っていない。烏丸今出川の交差点を西へ入ったところにある、なじみのうどん屋で、衣笠丼を食べよう。衣笠丼というのは、油揚げと卵をまぜて味付けして、温かいご飯の上に乗せたおどんぶりである。山椒をかけると余計おいしい。思ったほど寒くない久しぶりの京都に、心がはずむ。

アーモスト館から同志社の東門を入り、今出川校地を抜けて店へ向かった。同志社重要文化財の一つクラーク館の横を回って校地の中心に出たその時、西門前の大きな木に施した電飾が視界に飛び込んできた。暗い空に光のクリスマスツリーがそびえる。そうだ、もうすぐクリスマスだ。

キリスト教徒の家庭に育ったわけではないのに、幼いころからキリスト教とクリスマスは身近である。幼稚園ではクリスマスのときにキリスト降誕の劇をやらされ、小学生のころには近所に住む信者の家庭の友達に誘われときどき日曜学校に行った。「エスさま、エスさま、私たちを、あなたの良い子にしてください」という歌を、わけもわからず歌った。

中学生のとき大病をして長く入院したのは、セブンスデイ・アドベンチストというプロテスタントの一会派が経営する病院である。ユダヤ教のように土曜日を安息日と定め、豚は食べないという少々変わった宗派であったけれど、医師も看護婦さんも親切で心のこもった医療と看護を受けた。病気であっても好奇心は活発な中学生の生意気盛り。ときどき見舞ってくれる牧師さんや看護婦さんを相手に、「神様なんていない」と議論を吹っ掛けていたのに、気がつくとずいぶん影響を受けていた。今でもほとんど豚肉を食べないのは、この教会の影響であるらしい。

塾高から塾法学部政治学科と、およそキリスト教には縁のない学校生活を送ったあと、大学3年の夏から2年間留学したワシントンのジョージタウン大学はカトリック教会のなかでも学問の伝統が強いイエズス会の学校である。学生にもカトリックの家庭出身者が多い。ルームメートのチャーリーが熱心なアイリッシュのカトリック信者で、彼に連れられ何度か真夜中のミサに出た。キャンパスの片隅にある小さな礼拝堂で、みな無言で祈りをささげる。チャーリーはその後修道院に入ったと聞く。クリスマスイブにはケネディー兄弟が通った大学近くの教会でクリスマスキャロルを歌い、卒業式の前にもミサがあって仲間と一緒に参列した。神父が「どんなことがあっても、知らせはとてもよい」という説教をした。

さらに結婚して間借りをした横浜の家の大家さんが山手聖公会教会の信者さんで、クリスマスには一緒に礼拝へでかけた。ワシントンでロイヤーとして働いたときには、子供が通った私立学校がナショナル・キャシドラルに付属する聖公会の学校であった。大きなイギリス風の聖堂で卒業式やらイースター、クリスマスなど学校の主要行事が催され、その前後には必ず礼拝があり賛美歌を歌った。

日本へ帰って二男を入れてもらった近所の幼稚園もプロテスタントの教会付属であった。入園の際毎週土曜日親子で教会へ通うことという条件があり、春夏秋冬一年間まだ小さい息子と二人で通った。子供向けの礼拝そのものはあまり面白くなかったので、毎週旧約聖書創世記を一人で読んでいたら、卒園式のとき園長先生から「阿川君のお父さんは熱心に聖書を読んでおられた」と褒められた。本当はエジプトにさらわれたヨセフが遭遇した人類史上初のセクハラに関する記述などを、興味津津追っていたのだが。

当時たまたまカソリックの雑誌から原稿を頼まれ、九州弁でざっくばらんに話をする修道女の編集長から「阿川さん、はやくカソリックに入信しなさい」と熱心に勧められたこともある。まだ返事をしていない。ワシントンの大使館で働いていたときには、大学時代の別のルームメートの家にクリスマスが近い頃毎年訪れ、凍てつく空気のなか、ご近所のみなさんとクリスマスキャロルを歌って町内を練り歩いた。

そんなわけで信者ではないものの、キリスト教には親しみを感じる。4年前横浜へ戻ってきて以来、山手の聖公会教会にバザーとクリスマスイブの礼拝だけは、なるべく行くようにしている。教会のなかで、クリスマスキャロルを大きな声で歌うのが何より楽しい。

「諸人こぞりて、迎え奉れ、久しく待ちにし、主は来ませり」

幼稚園の降誕祭以来、クリスマス礼拝の最後に必ず歌うこの賛美歌、英語の歌詞は

"Joy to the world! The Lord is come, let earth receive her king."

である。2000年と少し前、はたして神の子である救い主が本当にこの地上に降り立ったのかどうか私にはわからないが、どんなに周りが暗く、どんなに毎日つらいことが多くても、希望がある。喜ぶべきことがある。一年に一度、クリスマスイブの教会で少し神様のことを考える。

光に満ちたクリスマスツリーが立つ同志社と比べ、慶應にはこの時期クリスマスらしいものは何もない。クリスマスが好きな私は、ちょっとさびしく思う。福澤先生は特定の信仰をもっていなかったようで、一切宗教を学校に持ち込まなかった。しかし自分自身のことはともかく、『福翁自伝』のなかで「仏法にても耶蘇教にても孰れにても宜しい、これを引き立てて多数の民心を和らげるようにすること」を「出来(でか)してみたい」ことの一つに挙げている。そんな先生だから、クリスマスも別にお嫌いではなかろう。

鳩山政権の日米安保政策、小沢幹事長の中国べったり政策、一向に改善の兆しがない日本経済の現状など、けしからんこと心配なことはいろいろあるけれども、そんなことはしばらく忘れ、SFCでもみんなで集まってクリスマスキャロルを歌えたら楽しいと思う。

だからみなさん、「メリークリスマス」(注)。みなさんにこれからたくさんいいことがありますように。よい新年を迎えられますように。

(注:もちろんメリークリスマスがいやだ嫌いだという人もいるでしょうから、その人たちには、それぞれの宗教のしきたりに従って、あるいは別の言葉で、あなたの平安を祈ります)

(掲載日:2009/12/17)
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# by minocoach | 2010-01-07 23:53 | おかしら日記

海原にも秋

海原にも秋

阿川尚之
SFC担当常任理事

 秋らしいさわやかな日が続く。週の終わりごろ雨が降ったが、週明け再び晴れて寒くなった。つい先日まで汗ばむほどの陽気だったのに、そろそろ冬の気配がする。

 秋学期に入って週に一度SFCへ通っている。三田での仕事に疲れた体に、SFCの広い空間が心地よい。毎日書類やコンピューターの画面を見続けた目は、SFCの木々の緑や紅葉に癒される。何よりも授業が楽しい。知り合いの学生が声をかけてくれる。 

 三田に移って改めてよくわかったのは、慶應義塾という大きな仕組みを動かすため、実に多くの人が働き、ありとあらゆる役割を果たしていることである。やらねばならない仕事と片付けねばならない雑用がほとんど無限にあって、よくみんなこなしている。私はくたびれた。

 さぼっても、さぼっても、仕事の山

 これだけ仕事が多いと、目を通さねばならない書類も多い。特に決済を求める稟議書というのがあって、これは責任上よく読まないといけない。しかし中には読んでも頭に入らないのがある。論理が飛んでいる。誤字脱字が多い。矛盾している。書いた本人が理解していない。

 そのうえ最初から最後まで、びっしり漢字とカタカナの外来語が並び、一つも切れ目がないような書類がある。読みにくいこと甚だしい。大学という組織は漢語と外来語が大好きだ。「心の病(やまい)」と言えばいいのに「精神疾患」、「さまざまな技(わざ)の集まり」と言えばいいのに「スキルミックス」。大体学部名からして「総合政策学部」「環境情報学部」「看護医療学部」と漢字のオンパレード。できれば2文字くらい漢字を減らしたい。SFCのカリキュラムだってそうだ。私が学部長として担当した「総合政策学の創造」。ときどき「創造政策学の総合」と言い違えた。そういえば今年のORF、テーマは「断面の触感」だそうだが、「ラーメンの食感」と聞こえる。

 もちろん天平の昔から、中国語、スペイン語、ポルトガル語、オランダ語、英語、ドイツ語と、外国のことばを使って外から文明を受け入れてきた日本である。ある程度外来語に頼るのは仕方ない。英語だって、ギリシャ語、ラテン語、フランス語起源の言葉だらけだ。日本の場合、特に漢語は定着しているし、簡潔でわかりやすい。何せあれだけ漢学者を嫌った福澤先生でさえ、「独立自尊」、「自我作古」、「半学半教」と、そのキャッチフレーズは漢語ばかり。いまさら福澤さんの言葉を、「一人で立って力強く歩きなよ」、「この私がいにしえを作って見せましょう」、「君に学び、君と学び、君に教える」と書き直すわけにはいくまい。

 それでもなお、漢語やカタカナ語の使いすぎはよくない。ある程度は「やまとことば」を混ぜたい。古代以来、歌人、俳人、そして詩人は、美しい日本語を使い、また創ってきた。「古池や 蛙飛び込む 水の音」が「故池蛙跳躍シテ水没セルヲ聞く」では、俳句になるまい。現代でも株式市場では「寄りつき」「高止まり」「小幅」「弱含み」「大引け」などと、やまとことばを使う。帝国海軍以来の伝統で、「出港用意」「両舷全速前進」「合戦準備」など、指揮命令にはガチガチの漢語を使う海上自衛隊も、なぜかその艦艇名には「むらさめ」「さざなみ」「せとぎり」「まつゆき」「たかしお」など、まるで古今集の歌に出てくるようなやさしいことばが多い。

 ちなみに10月25日の自衛隊観艦式には、観閲部隊先導艦「いなづま」にほぼ10年ぶりで乗艦。風が強く白波が立つ相模湾洋上を、観閲官をつとめる管副総理・主催者の北澤防衛大臣の座上する観閲艦「くらま」を後ろにしたがえて航行、「あしがら」「はたかぜ」「さわかぜ」そして新造ヘリコプター搭載護衛艦「ひゅうが」と続く受閲艦艇部隊と反航した。その話を書きだすと長くなるから、やめる。

 何のことを書いているのか分からなくなったが、そんなわけで仕事ばかりしている。そうすると、無性に海へ出たくなる。ちょうど結婚30年の記念すべき時でもあり(と理屈をつけて)、10月初旬、横浜から福岡まで2泊3日の船旅をした。乗ったのは商船三井の客船「にっぽん丸」。このところ毎年のように、短いクルーズに参加して海に出る。

 海はいい。海はすてきだ。海から見るわが国土は美しい。本州の沿岸を「にっぽん丸」は穏やかな波頭を次々に乗り越えて進む。甲板のレールから乗り出すようにして海面を見下ろすと、船首が心地よい波音を立てながら海面を切り、波は白く泡立って背後に流れる。その波が砕けて飛沫となって散り、波はやがてうねりとなって船尾後方に去る。船はゆっくり上下し、そのたびに遠くの海岸が、町が、背後の山が、そして空に浮かぶ雲が、上がったり下がったりする。

 航海2日目の早朝、神戸に入港。船客の一部を下ろし新しい客が乗り込んですぐに出港した。この日は一日瀬戸内海を東から西へ走る。午前中、明石大橋、午後瀬戸大橋、そして日没の頃来島海峡大橋と、3つの大きな吊り橋をくぐった。船首正面に見えてきた橋はみるみる大きくなり、橋の上を走る車が見え、やがて船がその下に入ると甲板の真上を前から後へと巨大な橋が移動する。くぐりぬけると船尾から徐々に遠ざかり、小さくなってやがてもう見えない。

 瀬戸大橋四国側の付け根に、沙弥島(しゃみじま)という場所がある。いまは埋め立てられて地続きになっているが、古代には狭岑島(さみねのしま)といって周囲2キロほどの小島だった。ここに柿本人麻呂の歌碑があることを、数年前ある人に案内されて初めて知った。人麻呂はこの島をおそらく海から訪れた。舟に乗って瀬戸内海を旅する途中だったのかもしれない。そして浜に上がり、磯の岩のあいだに一人の若い男が倒れて死んでいるのを見つける。嵐で遭難し流れ着いたのか、あるいは岩場で倒れ息絶えたのか。古代こうした死は、海で山で珍しくなかった。人麻呂はこの見知らぬ若者の死を悼んで、歌を詠む。

 「狭岑の島の 荒磯面に 廬りて見れば 波の音 しげき浜辺を しきたへの 枕になして 荒床に ころ臥す君が 家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを」

 万葉集巻之二に収められた、人麻呂の長歌の一部である。

 夕刻、瀬戸内海最大の難所、来島海峡に差し掛かる。厚い雲に覆われ、あたりはだいぶ暗くなっていた。西に沈もうとする太陽が、周囲の島々をやわらかく照らし、その光を受けて海面がほのかに輝く。振り返って東の方角は、もうすでに闇が深い。近くの島の西半分はまだ明るいのに、東側は黒く暗い。海峡には2つ水道が設けられていて、潮の流れによって通過する水道が変わる。「にっぽん丸」は、島の中腹にある潮流信号所の指図に従い、右に舵を切るとゆっくり水道の一つに向かう。船が回ると、周りの島々が動き、景色が変わる。沈もうとする太陽が、左へ移る。そのとき、島の縁から、一艘の小さな漁船が姿を現した。

 島影の 光と闇と 分くところ
   いさな採る舟 漕ぎいだしたり

 橋の下をくぐって来島海峡を抜けたころ、海はさらに暗くなった。周囲の島々がわずかな残照のなかで、黒々と空を限る。海と陸との境は、もはや判然としない。混然と一体になり、私自身も海山に抱きかかえられるようだ。このまま時間を止めて、海の上でじっとしていたい。そんな心持ちさえしたのである。

(掲載日:2009/11/05)
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# by minocoach | 2010-01-07 23:50 | おかしら日記

おかしら日記

朝が来る

阿川尚之
SFC担当常任理事

(私の文章は、HTML版 で読むことをお勧めします)

7月1日づけで、正式に三田へ引っ越した。それ以前から新しい仕事をぼつぼつ始めていたけれど、この日で正式に総合政策学部長の役目を終えた。

数日後SFCへでかけ、自分のオフィスへ足を踏み入れたら、机の真ん中に大きなコンピューターのディスプレイが置いてある。「だれだ、私の机の上に、勝手にこんなもの置いて」。一瞬そう思って、すぐ気づいた。いけない、ここは國領新学部長の部屋だ。私はそのとなり理事の部屋に移ったのを、忘れていた。理屈ではわかっているのに、2年間この部屋で仕事を続けたためか、足が勝手にそちらへ向かう。その後数回、まちがって國領さんの部屋に足を踏み入れた。学部長ごめんなさい。この癖ようやく取れました。もう不法な家宅侵入はしません。

SFCの学生諸君は、三田キャンパスにあまりなじみがないかもしれない。私の部屋は旧図書館と新図書館にはさまれた塾監局という名前の古めかしい建物、その2階にある。よく「三田の山」というけれど、暑熱のこの時期、田町駅から10分弱歩き、東門の階段を登って三田山上へたどり着き、さらに塾監局の2階まで一気に上がると、相当息が切れる。汗が噴き出す。自宅からJRの駅まで20分、田町から三田キャンパスまで10分、これを往復とも歩くのが、私の通勤時の運動になった。

塾監局は、戦争中にほぼ全焼した三田の山で生き残った、数少ない建物の一つである。建てられたのは大正15年。だから古い。1階や地階の一部は天井が低くて頭をこすりそうだ。3階の男子便所にはなぜか中に鉄製のラセン階段があって、上に向かって伸びている。ははん、これは4階に福澤先生の隠れ家があって、夜中になると見つからないようにそっと降りてこられる。そうに違いないと、私は密かに確信している。実際塾監局には、夜中幽霊が出るという噂がある。

私の部屋はSFCの学部長室に比べると、狭くて暗くて息苦しい。背後の比較的小さな窓からしか、光が入らない。だからいつもドアを開け放しにしている。でも周りを見たら、他の理事はみな扉を閉めている。これが三田の流儀であるらしい。実際、SFCからくると、三田はいやにかしこまっていて、多少やりにくい。ドアを開け放して大きな声で議論をしていると、前をどこかの会社の社長さんが通ったりして、具合悪い。そういうときは閉める。あんまり他の人の迷惑になってもいけない。

三田の人たちは私のことを「ちょっと」変わっていると思っているらしい。「ちょっと」どころではないとう声もある。ある日担当秘書のMさんに訊かれた。「先生って日本人ですか?」絶句して「えっ、100パーセント純粋の日本人だよ。遠い先祖は知らないけれど、どうして」と答えると、「だって、普通の日本人とは思えないんですもの。歩き方とか、話し方とか。みんなそう言ってますよ。でも本当は4分の1くらいガイジンでしょう」。それ以上、ナーンにも言えない。みなさん、SFCの人は気をつけましょうね。三田に行くと、火星人か外国人に間違えられますからね。

三田へ移って何が変わったかと、よく人が尋ねる。もちろん仕事の内容が変わった。SFCより三田にいる時間が長くなった。それにともなって通勤経路が変わり、始終新幹線が見られるようになった。昼の食生活は質が低下した。学食は混むし、あんまりおいしくない。(これ本当です。SFCの学食はおいしい)。外に出るのも面倒くさい。それで時々食べそこなう。会議が多くなった。しかし私にとってもっとも大きな変化は、出張が増えたことだろう。特に私はSFC担当に加え国際連携担当なので、時々外国に出ねばならない。

実際この仕事について2ヶ月ほどのあいだ、すでにニューヨーク、ロサンゼルス、そしてロンドンと3回出張した。それも数日で帰ってくるから、ちょっとしんどい。体力に自信がないので、あんまり無理な日程は組まないようにしているが、これからも出張が重なると思うとおそろしい。

でも正直に白状すると、私は遠いところに旅をするのが嫌いではない。もちろん目的地に着くと日中は仕事をしているのだが、ふとポッカリ空く時間があって、普段とは違う場所にいるのに改めて気づく。夜になって床に入り、時差のせいで早く目覚めると、いつもとは違う朝がくる。ホテルの窓から光が差し込む。外を見ると、そこにはニューヨークの摩天楼、さんさんと降り注ぐ日光を浴びるカリフォルニアの糸杉の並木、あるいはミュージカル、「メアリーポピンズ」に出てくるロンドンのスカイライン。ニューヨークではパン職人がまだ暗いうちからベーグルをオーヴンに入れて焼く。ロサンゼルスでは日が昇る前からフリーウェーを通勤の車が走りだす。ロンドンではテムズ川の水面に風を受けてさざ波が立ち、朝日を受けてきらめく。それぞれの朝、人々が忙しく働きはじめる。

朝はいい。特に夏の朝はいい。一日中働き、いやなことがあってくたくたになっても、夜が明けると朝がくる。また一日やろうという気が起こる。どんな場所でも、たとえ天気が悪くても、世界中で少しずつ時間を変えて、朝が来る。いろいろな問題を抱える慶應義塾の各キャンパスにも、朝が来る。必ず来る。

谷川俊太郎の若いときの詩に「ネロ」というのがある。そのなかに、こんな一節があった。

「そして今僕は自分のや又自分のでないいろいろの夏を思い出している
メゾンラフィットの夏
淀の夏
ウィリアムスバーグの夏
オランの夏
そして僕は考える
人間はいったいもう何回位の夏を知っているのだろうと」

私もまた、いくつかの夏と、いくつかの夏の朝を思い出して、考える。私はあと何回位の朝を迎えるのだろうと。

ロンドンからの帰路、ヒースロー空港を離陸した日本航空のボーイング777-300は、ウィンザー城とテムズ川の上を旋回しながら高度を上げ、水平飛行に移るとイングランド上空を北東へ針路を取った。北海に出ていくつかの島を通りぬけ、フィンランドの海岸線とロシアの大地を見下ろしながら飛び続ける。眼下に広がる平原で、いくたびもいくさが戦われ、国が起こり、国が滅び、夥しい数の人が死んだ。けれども1万メートルの上空からは、日の光をななめに受けた陸と海とが茫洋と拡がるだけで、まるでそんなことは全くなかったかのように静かで穏やかである。

やがて陸は暗くなり、雲がかかって見えなくなった。夕陽を浴びた西の空が茜色に輝きはじめる。東に向かって飛んでいるのに、飛行機が次第に緯度を上げているためか、もうすっかり傾いた太陽がなかなか沈もうとしない。それでもようやく日が落ち、残照も消えて、大空に夜の帳が下りる。食事をすませブラインドを閉めて、乗客がめいめい北の空で眠りにつくころ、SFCでも三田でも夜が明けはじめ、また朝が来る。

(掲載日:2009/08/20)
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# by minocoach | 2009-09-20 16:37 | おかしら日記

おかしら日記

「SFCの黒羊」阿川尚之総合政策学部長

 我が家の子どもたちがまだ小さかった今から二十年ほど前、アメリカで買った毛布を今でも使っている。白い羊が何匹も並ぶ模様なのだが、そのうちの一匹だけ黒い羊である。実はこのデザイン、英語の「ブラックシープ・オブ・ザ・ファミリー」という慣用句を視覚的に表したものだ。白い羊の群れに、遺伝子のいたずらでまれに黒い羊が生まれることがある。この現象から、「一人だけ親に似ない、周囲と調和しない人」を指すようになったという。日本語の「鬼っ子」に似ている。

 実は小生、自分がSFCの黒羊だと、密かに思っている。SFCには積極的に世の中に関わろう、自分の力で世の中を変えていこうという、元気のある人が多い。気候温暖化を防ぎ環境問題を解決しよう。新しいベンチャーを立ち上げよう。21世紀の新しいインターネットシステムを構築しよう。そのエネルギーたるや、見上げたものだ。

 私自身も学部長として、学生諸君に対し「問題の発見、問題の解決」を目指せ、「未来への先導者」たれ、などと発破をかけているけれども、当の本人はできればあんまり人と会わず、家で静かに歴史の本など読んでいたい。海のそばで一日中じっと沖を行く船を見ていたい。何にも立ち上げたくない。(第一、「立ち上げる」という言葉が大嫌いである。)せっかくだから寝かしておけばいい。

 小さいときから、自分があまり周囲になじめないと感じていた。友人のなかで騒いでいても、ときどき遠くから友人と自分自身を冷ややかに眺めている。慶應義塾高校に入学したときは、特にそれを感じた。慶應高校生は、勉強はあまりしないけれど、人づきあいがうまく格好よかった。そんな彼らがとても遠く思えた。

 けれどもそれから三十年間、人前で一応話ができるようになったし、大勢の人のなかにいても気後れしなくなった。歳を取って図々しくなったのだろうか。あろうことか、この頃は時々「あなたは幼稚舎から慶應ですか」などと訊かれることさえある。知らないうちに私は、「慶應らしく」なっていたらしい。

 さて「SFCらしさ」である。開設されてからまだ20年も経っていない、しかも研究・勉学の内容がきわめて多様なこのキャンパスの教員や学生に、共通の「らしさ」などあるのだろうか。そもそもSFCの人は、SFCとは何か、総合政策学部・環境情報学部とは何かを論ずるのが好きだ。これほど自らのアイデンティティーを問いかけ続けること自体、SFCが何であるかがよくわからない証拠ではないか。

 ある人は、SFCの原点を慶應義塾の創立者である福澤の精神に求める。SFCは福澤先生の理想にもっとも近い学校だと主張する。ある人は、それを SFC開設時の加藤寛さんや相磯秀夫さんの果敢なるファイティング・スピリットに求める。創設時のSFC精神はどこへ行ったのかと嘆く。さらにある人は、過去を振り返るな、これまでの歴史など関係ないと断言する。SFCは常に未来を向いているのだからと胸を張る。それぞれ一面の真実があり、それぞれ何か足りない。

 私自身、大学で教えてみたいと初めて考えたとき、思い描いたのはキャンパスの真ん中にチャペルがあるような、古い静かな大学であった。大教室には黒光りする大きな教壇があって、学生は静かに講義へ耳を傾けノートを取っている。図書館の書庫へ入れば古い本の匂いがする。入口には大きくて立派な古い門があり、キャンパスの外へ出ると古本屋がある。そんな大学で私は少人数の学生と小さな教室で集まり、古典を輪読する。

 それがどうだ。私が着任したSFCには、チャペルなど天上の世界を思わせるものは何もない。おそろしいほど現世的だ。大教室で授業が始まると学生は一斉にノートパソコンを取り出し、キーボードをたたく。メディアセンターでは本よりコンピューターが幅を利かせる。SFCの周辺に古本屋はおろか、本屋が一軒もない。万葉集の歌や蕪村の句を口ずさむ人は絶えてなく、URLやらRFIDなど、わけのわからぬ横文字の略語ばかりが横行する。

 そんななかで、19世紀の合衆国憲法判例を学生に読ませ、日米関係史の授業で日米和親条約の原文を配る。1年生の授業では『学問のすゝめ』を手で写させ、コンピューターは授業中なるべく閉じろ、パワーポイントは嫌いだ、きちんと文章を書けとわめく。そんな私は、どう見てもSFCの黒羊である。 SFCらしくない。

 しかしである。着任以来ずっとそう思ってきた私の気持ちが、少し変わりつつある。学部長になって初めての三田の会議。塾長以下、常任理事や学部長・研究科委員長が並ぶなかで、やおらノートパソコンを取りだしたのは、「私を含む」SFCの面々だけだった。「おや、私もSFCらしくなったのかな」と、内心おかしかった。

 去年の秋、三田の教員談話室で、SFCの同僚F先生と打ち合わせをしていたときのことである。FさんもあんまりSFCらしくない。「2人とも、 SFCでは異質ですねえ」と言うと、Fさんにやりと笑って、「でも、我々SFCだから、生きていられるんじゃないですか」と答えた。同感である。

 まったくSFCらしくない人でも排除せず、鷹揚に受け入れてしまうのが、もしかすると「SFCらしさ」なのかもしれない。
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# by minocoach | 2009-06-23 22:57 | おかしら日記

おかしら日記


おかしら日記
SFCの木のように

阿川尚之
総合政策学部長[2009/5/28]

(デザイン上の問題により、本ホームページFLASH版では、この文章が読みにくい状態です。FLASH版でご覧の方はHTML版に移動してお読みください。)

私自身はそんなに年を取ったと思わないが、SFCの学生諸君と比べれば、2倍か3倍長く生きている。中学に入ったころ、10代後半の女性を見て、なんて大人びているのだろうと思った(正確には、ポーッと眺めていた)。40代の人を見て、なんて年寄りだろうと思った。義塾を中退した佐藤春夫が、三田の学生時代をなつかしんだ詩に、「若き二十(はたち)は夢にして、四十路(よそじ)に近く身はなりぬ」という一節がある。はるか昔の人だと思う佐藤春夫が、こう記したとき、彼はまだ30代だった。私はいつの間に、四十路のはるか彼方、「六十路(むそじ)に近く」まで、来てしまったのだろう。

これだけの年月生きていると、いろいろなことがある。思い通りにならない時も多かった。意図したわけでは必ずしもないのに、学校を途中で変え、社会に出てからも職を変えた。だから取るべき進路について、決断を迫られたことが何度かある。それぞれの決断は正しかったのか。そう問われれば、「わからない」としか答えようがない。もっとよい選択があったかもしれない。ただわかっているのは、右へ進むか左へ進むか、その都度「えいや」と決めて、気がついたらここにいた。それだけである。

ニューヨーク・ヤンキーズの名キャッチャーとして鳴らし、監督やコーチとしても活躍した、ヨギ・ベラという往年の野球選手がいる。この人はちょっと変わったことを言うのでよく知られていて、「ヨギ・ベラの名(迷?)言集」などという本が、たくさん出ている。その1つに、こんなのがあった。

"When you come to a fork in the road, take it!"

「分かれ道にさしかかったら、かまわない、どんどん行け」。そんな感じだろうか。論理は明らかに破綻しているけれど、言いたいことは妙によくわかる。

ちなみに、この人、他にも「あそこには誰も全然行かないよ、混み過ぎさ」「野球は90パーセント精神的なものだ、あとの半分は肉体的なものだけど」「未来って、昔はこんなもんじゃあなかった」「他人の葬式には必ず行くもんだよ、でないと自分の葬式に来てくれない」などと、訳のわからないことを、たくさん言っている。

ついこのあいだ若葉が出始めたと思っていたのに、忙しくしているうちにSFCの緑がすっかり濃くなった。梅雨までまだ少し間がある。晴れた日に木陰に入ると、空気がひんやりして、気持ちいい。

そう言えば、「青葉茂れる」ではじまる、小学唱歌があった。楠正成が湊川の戦いを前にして、桜井の駅で息子正行と別れる場面を描写した歌である。

青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
木(こ)の下陰(したかげ)に駒とめて 世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧(よろい)の袖(そで)の上(え)に 散るは涙か、はた露か

こんな歌、今の若い人は、だれも知らないだろうなあ。そんなことは、まあどうでもいい。

先日、SFCの本館から学食へ向かって歩いていたら、メディアセンターとカモ池の間、校舎寄りの芝地に立つ4本の木が視界に入った。若葉の枝を風に揺らしている。欅(けやき)だそうである。しばらく見ぬ間にずいぶん大きくなった。10年前、この学校へ初めてやってきたとき、キャンパスの木はどれも背が低くて貧弱だったのに、いつのまにか幹を太く長く伸ばし、しなやかに枝を伸ばし、そこから若葉が天に向かってさらに伸びている。

最近、木を見るのが好きになった。特に背の高い落葉樹がいい。冬になってすっかり葉を落とした裸の木。春、芽が出て、若葉が伸び出す木。それぞれ味がある。若いころは花がいいと思ったけれど、今は春夏秋冬、少しずつ枝を張り、太く高くなる木がいい。木はものを言わない。ただ着実に年輪を重ね、すっくと立っている。

この5月、私はまた人生のちょっとした転機にさしかかり、1つの決断をした。なぜこの選択をしたのか不思議に思うが、してしまったものは仕方ない。せめてSFCの大きな木のように、まっすぐ背筋を伸ばして立っていたい。
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# by minocoach | 2009-05-30 11:25 | おかしら日記

おかしら日記

春浅き生駒ヶ岳に日は沈み

阿川尚之
総合政策学部長[2009/3/30]

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 三月初旬、しばらく学部長の仕事を忘れて、奈良を訪れた。天理市立図書館で講演を頼まれ、それを機会にいくつか寺を歩いて回った。
 講演の前日、京都駅を特急で定刻に発車、近鉄丹波橋、大和西大寺と停車して、36分で近鉄奈良駅に到着する。この特急は学生時代奈良を訪れるたびに、よく乗った。昔はおしぼりが配られ、丹波橋には停まらず奈良まで33分で到着した。それ以外は、あまり変わっていない。当時ビスタカーと呼ばれた二階建車両を中二両連結した四両編成のビスタEX30000系電車が、いまだに走っている。
 ホテルに荷物を置き、暮れ方、高畑町の辺りを歩く。新薬師寺から春日の杜の原生林を抜けて、奈良町へ戻った。途中、鹿の家族に出会う。小鹿が参道を横切るまで、父鹿が辺りを用心深く警戒していた。翌朝、興福寺国宝館で、東京へ旅発つ直前の阿修羅さんに対面。そのあと、近鉄奈良駅から大和西大寺で乗り換え、西の京の唐招提寺と薬師寺の横を走り抜けて、平端経由、天理へ向かう。

 講演に招いてくれたのは、天理市立図書館で子どもの本の運動を長年続けるNさんとそのお仲間である。昔々、児童文学者の石井桃子さんが「かつら文庫」という小さな子供の図書室を、自宅で開いた。小学校へあがる直前であった私は、開設の日から約五年間、毎週日曜日この文庫に通い、本を読む楽しさを知った。子どもの図書館運動は、「かつら文庫」からやがて全国へ広がる。石井さんが「かつら文庫」の記録を綴った本に写真で登場する私は、絶滅危惧品種として、この世界で少々名を知られている。
 そんな縁で、八年ほど前、天理へ招かれ、市のホールで「かつら文庫」の思い出と子供時代の読書について話した。今回は二度目だから、同じ話をするわけにいかない。それなら文庫を卒業して中学生になった私が、奈良にあこがれ、長い闘病生活のあと、高校・大学時代に奈良の寺を歩きまわった話をしよう。そう決めた。
 振り返って、あの頃どうしてあれほど何回も奈良を訪れたのか、自分でもよくわからない。小学校六年生の最後の冬、家族で京都・奈良の旅をして、東大寺を初めて訪れた。中学の国語の授業で、佐々木信綱の「行く秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一片(ひとひら)の雲」という歌や、堀辰雄が戦争中奈良を歩いた感慨を記した随筆「大和路」の一部を読まされた。大和の寺や仏像を愛した会津八一の歌にも親しんだ。一緒に遊んでくれる彼女はいなかったし、多感で孤独を愛する青年時代の私(今も少しも変わっていない)は、学校が休みになるたびに、学割で東海道新幹線「こだま」に飛び乗って奈良を目指した。かばんに、会津八一の「自註鹿鳴集」と堀辰雄の「大和路」が収められた文庫本を入れて。
 学生時代のことである。東大寺戒壇院からそんなに遠くない低料金のユースホステルにたいてい泊まった。そして大和の寺を片端から訪ねて歩いた。東大寺、薬師寺、唐招提寺、法隆寺といった主要な寺だけでなく、奈良市周辺の法華寺、海龍王寺、秋篠寺、新薬師寺、白豪寺。北へ足を伸ばして浄瑠璃寺、岩船寺。南西へ下って中宮寺、法起寺、法輪寺、南東の方角へ長谷寺、室生寺。さらに飛鳥から當麻寺まで足を延ばした。そして行く先々で、

 「奈良阪の石の仏の頤(おとがい)に、小雨流るる春は来にけり」

 「大寺のまろき柱の月影を、土に踏みつつものをこそ思へ」

 「秋篠のみ寺を出でてかえり見る、生駒ヶ岳に日は落ちんとす」

など会津八一の歌とその解説を読み、堀辰雄の短編の、

 「いま唐招提寺の松林のなかで、これを書いている(中略)。此処こそは私達のギリシアだ」

 といった、今読むとかなり甘ったるい文章を読んだりした。
 奈良に旅をしたのと同じ頃、私はアメリカに憧れはじめる。塾高二年の夏、交換留学プログラムに応募し、少年時代のバラック・オバマが歩いていたかもしれないハワイのプナホウ高校に六週間滞在する。法学部政治学科三年の夏には、ワシントンのジョージタウン大学へ留学し、そのまま慶應を中退して戻らなかった。留学中ホームシックになると、奈良の寺々を思い出した。そんなとりとめのないことを、今回の講演で話した。

 講演のあと、その晩はNさんの友人で金春流のお能の家と縁が深い茶人のMさんのお宅で、家内と二人お点前に預かり、食事をごちそうになった。先回天理を訪れたとき一緒に山の辺の道を歩いたので、私が「山の辺ガールズ」と名づけた子供の本のお仲間数人が相客である。Mさんの家も、山の辺の道に近い。日が暮れて、すっかり暗くなった帰り道、西の空に眉月が昇り、さえざえと輝いていた。
 堀辰雄が愛した奈良ホテル旧館に泊まった翌朝、Nさんのもう一人の友人Aさんが運転するヴァンで、山の辺ガールズたちが迎えに来てくれた。南へ走って、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿暗殺の決行を密かに謀った談山神社を歩き、それから飛鳥へ向かって石舞台と岡寺を巡り歩いた。あちこち梅が咲いている。石舞台の背後の丘では、枯れ木の先がほんのり紅くなっている。木の芽が出はじめる前、ごく短い時間見られる景色である。石舞台の巨石の隙間から日の光が一筋二筋差し込み、古人の墓のなかも心なしか暖かかった。

柔らかな光一条射し入りて、石の舞台に春来たるらし

 やがて夕暮れどきとなり、東大寺二月堂のお水取りを初めて見学する。千二百余年、一度も休むことなく続いたという、伝統の行事である。おたいまつ、修二会とも呼ぶ。二月から準備が始まり、三月に入ると連日二月堂に大きな松明が上がる、お堂の舞台に上がった松明から降り注ぐ火の粉を浴びると、無病息災でいられるとの言い伝えがある。
 早めに堂へ上がれば、松明を身近に見られるというので、一時間ほど前から舞台で待った。西の空はよく晴れて、日が沈んだあとも茜色に染まっている。空気が澄んで視界がよく、生駒の山が黒々と横たわる。その上空で金星が明るく輝き、西南の方向には、関西空港への着陸態勢に入った旅客機の灯りが、滑走路へ向かってゆっくりと下りていくのが見えた。
 辺りがすっかり暗くなったころ、法螺貝の音とともに、童子と呼ばれる寺の人がかつぐ長くて重い竹の大きな松明が、音を立て、煙を出し、焔となって燃えさかりながら、二月堂横の登廊を上がりはじめる。あとから練行衆と呼ばれる修行僧の一人が上堂し、堂に達すると横から入堂して、木沓で床を鳴らしながら内陣へと走り込む。その姿は白い帳を通して外からも見える。文字通り、影法師のようである。その間松明は舞台のへりから突き出され、くるくると回されて火の粉が飛び散る。下で待つ大勢の人々からどっと歓声がわき起こる。我々の目の前をかけぬけ、飛び散る火の粉を、あとに続く寺の人が箒で掃いて手早く消す。
 しばらくして二本目の松明が堂を上がる。また一人僧が入堂し、僧は足を踏みならしてお堂の奥へ入り、大松明は夜空に赤々とつきだされ、火の粉が再び降り注ぐ。三本目、そして四本目。途中で消えてしまったものも含め、全部で十本。舞台に上がって燃えるそれぞれのお松明の上に真っ暗な空が広がり、腰をかがめて見上げると、空には明るく光る金星が、その上には今まで堂の庇に隠れて見えなかった眉月が、上下にまっすぐ並んでかかっていた。

 春浅き生駒ヶ岳に日は沈み、御堂のうちに僧の影あり

 おたいまつ、み堂登りて赤々と、月に届かむ、星に届かむ
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# by minocoach | 2009-05-11 22:38 | 日記